軌跡

過去へのアンソロジー

禍根

山尾事件のテレビ報道を見ていて「最低だな」と良いながら、俺にそんなことをいう権利はないな、とふと思った件。

禍根-5

 いったいどこからどうなってそうなったのか、全く覚えていないのだけれど、多分初めてふたりでどこかへ出かけたのは横浜体育館であった全日本ジャズフェスティバルではないかという気がしないでもない。それは冬だったかも知れない。だとしたらそれが最初じゃないはずだ。
 大学4年の夏、私は就職を決めた。オヤジが勤めている会社にコネで入ったのだ。いい気なものだ。その祝いに、なんぞとかこつけて、アメリカへ行かせろと臑をかじった。確か一年間有効の日本航空のオープンジョー・ティケットを36万円もかけて買わせた。そんな切符で当時出かけた若者はほとんどいなかったのではないか。それはただ知恵がなかっただけなのだ。渡ったサンフランシスコで出逢った若者達はみんなタイのサイアム航空(その後廃業)やら、韓国の大韓航空の安い切符でやってきて、不法就労している連中だった。だから、JALの切符を持っている奴は笑いものにされた。その切符で私は先輩の友人のアパートになんと60日も転がり込んでいた。
 その間、その女学生はフロリダ州のSt.Petersburgという街でホームステイをしていた。そのプログラムに参加するのをどうやって決めたのかは全く知らない。私が転がり込んだ先を教えておいたのか、サンフランシスコとフロリダの間で手紙が行き交った。多分返事が来るまでに10日間くらい掛かったんじゃないか。毎日朝起きると三階の部屋からとんとんとんと階段を降りて郵便受けまで見に行く。そこに手紙を見つけたときの喜びといったらない。それは連日、空の郵便受けを虚しく見つめてきたからこそだった。
 夢を見た。あれは学校だったのだと思う。少し遅れ気味に到着してみると、もう既にみんな席に座っていて、後ろの方に彼女が座っている。私の席は一番前なので、後ろから入っていって肩に手を回すと私だとわかっていて、そのまま私の手をつかんで掌にキスをする。
 とうとうフロリダからサン・フランシスコにやってくる日が来た。前夜遅くにYMCAに到着したという。彼らはなんとフロリダからバスでアメリカ大陸を横断してきたという。すさまじいことをやったものだ。しかも、途中からバスのエアコンが壊れて、這々の体で到着したのだという。それにしてはポンチョを羽織っていた。ひょっとするとエアコンが壊れて逆に寒くて仕方がなかったということか。
 すぐさまアパートへ連れてきてくっつこうと作戦を立てるも友人は夜の商売だったから、いつまでも部屋にいて出ていかないので、外をほっつき歩く羽目になった。居候としては当然だろう。どこをどうほっつき歩いたのか、全く記憶がないが、多分公園だったのだろう。
 夜になってYMCAの彼女たち一行と合流した記憶はあるが、どんなメンバーだったのか、全く覚えていない。覚えていたのはその中にかの達のパーティーではないけれど、日系三世の若い男がいて、私たちの日本語会話は理解できるのだけれど、発語は英語、という男がいた。日本人達はみんなで、格好つけてしゃべれない振りをしているけれど、本当は日本語べらべらなんだろ?と問いただすが彼は頑として強調した。後から考えてみると、確かにそういうケースはあり得る。
 折角再開したというのに、一行は一泊しただけで日本に帰っていった。それからは日本に手紙を書き続けた。

禍根-4

 三年後、それまで参加してきた某インターサークルの活動で中心年代となって忙しくなってきた。すると多くの参加者との接点が増え始める。しかも、学校の中の雰囲気もわかり切ってきたところへ多くの学校で紛争が勃発する。私の学校もご多分に漏れず、まるで流行に乗り遅れまいとするかの如く、学校側と学生との間の団体交渉があったり、学生による学校のロックアウトがあったりした。落ち着かない時期だった。
 当然、行動半径も広がってくると、いろいろなタイプの女性を知ることになる。どんなことをしてでも暮らしていけると、ようやく思い始めた頃だろう。地方から出てきた同級生の中には、驚くように奔放な生活を送り始めた連中もいた。もう既に同棲している連中もいたし、これ見よがしに女性関係を誇らしげにいってみせる連中もいた。いたく羨ましかった。学校まで遠いからアパート住まいをしたいといってみたら、動機が不純だと、おふくろにすぐにばれた。そうなってくると、彼女の背景も性格もわかりきっていることがいけないのか、倦怠感を生み出していた。そんなとき、私と同じように浪人をして、同じ大学に入ってきた、高校で同学年の男のクラスに、ちょっと気になる女学生を発見していた。
 学外組織に参画していたときに、その事務所に電話番に通っていたことがある。主催するスキーツアーの申し込み電話の受付だった。ほとんどの参加者はメンバーの知り合いだったり、そのまた知り合いだったりするが、学外組織の配布物の中に記載してもらっていたから、メンバー以外の申し込みがあり得るからだった。そういう時に電話をかけてくるのはおおむね、女子高校生か女子大学生だった。
 その年の夏は生まれて初めて女性と二人きりで旅行をした。その高校の同級生だ。もちろん親には内緒で、サークルの連中と出かけるということにしてあった。果たして向こうはなんといって家を出てきたのだろうか。伊豆の民宿に二泊した。その民宿は向こうが見つけてきた。ビーチはそれはそれは見事なまでに綺麗な海で、どこまでいっても自分の足下が透けて見える。生涯の中であんなに綺麗な海はもう見たこともない。その後の半世紀を振り返ってもあんな綺麗な海は知らない。ビーチに海水浴客はホンの数えるほどしかいない。海の家なんていう気の利いたものは一軒も建っていない。あるのはたった一軒の茶屋だった。そこで食べさせてくれるのはインスタントラーメンだった。それがことのほか旨かった。民宿の主人は私たちをいったい何だと思ったのだろうか。二泊では我慢できなくて、翌日、東京へ少し近づいた温泉町で飛び込みでもう一泊した。翌朝食べた朝ご飯の鰺の干物が旨かった。
 山にも行った。山のてっぺんにある、ランプの宿だった。それでも私たちは一線を越えなかった。
 その年の夏、出入りしていた組織が欧州から日本にホームステイをしてやってくる若者を募った。何日か、そのうちの何人かをそれぞれが担当して、連れて歩いてくれないかという依頼があった。私はドイツ人の青年を一日横浜を連れ歩いた。それで彼が満足したのかどうかは知らないが、当時まだ走っていた市電に乗せて歩いた。
 かれらが帰国する前に銀座のロシア料理の店でレセプションがあり、最後に目白の椿山荘で、フェアウェル・パーティーがあった。そこでは同じ大学からボランティアとして参加していた女子大生達も来ていて、顔見知りになった。
 そのうちのひとりがギタークラブに所属していて、良くキャンパスでケースに入ったガットギターを持って歩いていた。まるでテニス部の連中が用もないのにテニスラケットを持って歩いていたのと同じようだった。
 たまたま、彼女と一緒に同じようにギターを持って出逢ったのが、ちょっと気になった女子学生だった。何度か学内で接点があるうちに話をするようになる。人と話をするときに、上に上げるように目をそらすのが癖で、クスッと笑いながらしゃべる。照れがあるのか、なんだかまるで男と口をきくのは人目をはばかるかの如くだった。

禍根-3

   社会に出たばかりの事務員と大学に入ったばかりの学生の組み合わせが、いったいどれほどの将来像を描いていたのかといえば、もうそんなものは考えようもない。ただ、目の前のこと、つまり相手のことしか考えることはない。
 ただただ一緒にいて、ただただ手をつないでいるだけだ。それが夕食の店だったり、喫茶店だったり、電車の中だったり、帰宅する帰り道だというだけだ。とても、将来像なんてものに思いが広がるわけがない。見当のつかない明日という時間を考えると、無理にでも関係を解消して離れてあげなくては彼女の将来性になんの足しにもならないではないかと思っていた。自分の将来に何かが起きるとはとても思えなかったからだ。少なくとも彼女は企業の雇員となって月収があって、とりあえず生活の糧を稼いでいる。一応将来への基礎はできていたといって良いだろう。しかし、自業自得とはいえ、ろくに受験準備に励むでもなく、のんべんだらりとした時間を過ごして、結果的に本人には思いも寄らなかった学校に通い始めたばかりで、そんな思いに至った大学生としての時間はいったい何だったのだろうか。
 大学を卒業しさえすれば金を稼ぐことができるはずだとなぜ思えなかったのか。高度経済成長のまっただ中だったはずで、その証拠にアルバイトはいくらでもあった。
 それでいながら生意気にも、ふたりでの食事、ふたりで見る映画、入る喫茶店の費用を自分ひとりで出そうとした。どうやって工面していたのか、甚だ不思議。それでいながら一線は越えられなかったのだ。なんでだろう。はっきりいえば怖かった。なにが怖かったのかといったら、多分避妊できなかったときのことが怖かったというのもあるけれど、これで縛られてしまうのは怖い、という思いではなかったのかという気がしないでもない。縛り付けてはいけないという気持ちを持っていたという言葉とは全く矛盾するのだけれど、自分もフリー・ティケットをまだ持っていたかったのではなかったか。
 それが三年目に顕在化する。
 

禍根-2

 駅で待ち伏せしていてなにが面白いのかというと、「えっ、どうしたの!」と驚いてくれ、その上思いも寄らなかったことに喜んでくれる。その表情と反応が嬉しくて、何時間でも平気で待っていた。こんなところでも相手のことを考えてやっているように思えるのだけれど、実は全然そんなことはない。結局は自分が嬉しくなりたいがためにやっているに過ぎない。つまり、誰が中心でもなくて、あくまでも自分が中心にいる。自分のための時間であり、イベントであるに過ぎない。
 彼女がそこまでその時に気がついていたのかどうか、私には確信はない。しかし、どうだ、面白いだろ?俺って結構献身的だなぁと喜んでいたらしい。なんとまぁである。
 通常は彼女は駅前のバス停留所からバスに乗って丘をひとつ乗り越えて帰宅する。その丘をふたりで手をつないで歩いて送っていくのが楽しかった。たかだか1.5kmほどの道のりだったけれど、大きなホテルの横を登っていっててっぺんにある警察と消防署を過ぎて下ってしまえば、大学の先が彼女の家だった。親がなにをやっていた人なのか、全く知らない。私立大学の付属の高校に行っている弟がいたことは覚えている。しかし、全く顔を覚えていない。覚えたくなかったのだと思う。お父さんもお母さんも覚えていない。通りに面したごく小さな、普通の木造の二階家だった。
 その家の周りは石垣で築かれた大きな敷地のお大尽の家ばかりだった。大企業の重役やら、有名な脚本家の家が並んでいた。だから、送っていくのにわざわざ遠回りをして、人の眼がなくなる高級住宅街の路地を巡って帰って行った。そうすればどきどきしながら唇を重ねることだって可能だった。みえみえだ。
 そういえば生まれて初めてのキスも彼女だった。あれは皇居前広場のベンチだった。夕暮れ時のベンチはすべて二人連れで埋まっていた。

禍根

 そのきっかけがなんだったのか全く思い出せない。そもそもは高校の同級生だった。しかも多分二年生の時の同級生で、一年生の時は一緒ではなかったと思う。

 その高校では学年が変わるごとにクラス編成があった。一年から二年になるときはそれほどでもないのだけれど、三年生になるときはがらっと変わる。それは当時は女子学生の半分近くは高校を卒業したらそのまま就職したからで、進学組は文科系と理系にクラスを編成したからだ。当時は国立大学を受けようとすると五教科の入試があった。文系でも数学があって数学II-Bまでだったけれど、理系は数学-IIIまで出る。私立文科系だったらわずかに三教科ですむ。最初は数学もやって国立を受けるつもりだった。授業料が五分の一くらいだったからだ。しかし、すぐに数学に躓いた。理科は生物の教師、物理の教師とそれぞれぶつかって途中から放棄した。どう考えても教師の方が理不尽であったけれど、放棄した自分が阿呆だった。それで人生が大きく変わったといって良いだろう。その意味では高校の教師の影響は大きかった。

 文科系が共学で3クラス。就職組が全員女子で3クラス。国立文系・理系がほとんど男子で4クラスくらいあったのだろうか。自分は文系共学クラスだったから教室が一番離れていた男子クラスのことは良く知らない。なにしろわざわざ男女共学の学校に通っているのに男子ばっかりのクラスなんかにいて、つまらんだろうにと思っていた。しかし、心の中では大学受験で数学をあきらめて安易な方向に舵を切った自分に呆れてもいた。安易な方向へ流れ始めた自分の人生を自覚し始めていた。こころなしか、男子クラスの連中が人生の勝ち組にさえ思えたくらいだった。実に小さなコップの中の勝ち負けだった。なにしろ高校入学時点で勝ち負けはついていたのだ。その高校への入学者の男子のほとんどは他の高校を受験して落ちた連中だったからだ。

 高校三年といったらもう17-8歳になるわけで今から考えたら、その割に幼いというべきか、まだ純真というべきか、プリミティブといってしまいそうなくらいだったような気がする。

 誰が云いだしたのか、もう全く覚えていないのだけれど、三年生になるときに、当時流行っていた交換日記をつけ始めた。『軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた女性と大学生の交換日記「愛と死を見つめて」』が大ヒットして、交換日記は大流行だった。今で云ったらまさにFacebookだろう。男が私ともうひとり、私と一年生の時から同じクラスだった男子。そして女子は就職クラスの2名と文系進学クラスの2名で全部で6人だった。B5サイズの横罫ノート(といっても昔はそれしかない)をぐるぐると回していた。回ってくるのが楽しみだった。実は私は当時、自宅でもA4のノートに日記をつけていた。オヤジからもらった若干インクが漏る古い万年筆で、一日に数ページもの日記だった。週に二日は英語の塾へ行っていたけれど、そんなこんなでほとんど受験勉強らしいものはまじめにやっていなかった。そんな状態に加えて、落語研究会を立ち上げたり、クラスの仲間で学校始まって以来のエレキバンドを組んでしまったりして真剣に受験をしようとしているとはとても思えない状況だった。

 男子クラスの友人が見るに見かねてなのか、それとも親からの差し金なのか、わざわざ私のところへ来て「一緒に勉強しようよ」と云ったことすらある。彼はその後国立大学を出て歯医者になった。その友人の父親とうちの親父、そして交換日記の男子の親は、全くの偶然ながら全員同じ会社で働いていた。

 結果として私は浪人をし、女子はふたりは有名企業に就職を果たし、進学組は堅実に進学し、もうひとりの男子は創設されたばかりの大学に進学した。

 当時は浪人することになんの抵抗もなかった。浪人する結果となる卒業生はいくらでもいたようだ。私は予備校へ通ったが、地方の高校では浪人した卒業生の為に補修コースを創る学校だってあったらしい。ま、それくらい受験生がいたということだ。

 結果的に交換日記は終わりを告げ、私たちはばらばらになった。しかし、そこからどうして私がその交換日記のメンバーのうちのひとりとその後つきあうことになったのか、そのきっかけがわからない。いや、曖昧な意味しか持たない「つきあう」という言葉はふさわしくないかもしれない。なぜならそれまでは交換日記というつながりが確かにあったのだから。

 しかし、一年間の浪人生活の後に大学生になってから、学生服を着て彼女の勤務先へ行ったという不思議な記憶が残っている。なぜそんなことをしたのか、どういう理由があったのか、今となっては全く理解できない。相手だって、入社二年目の女子社員でしかないわけで、その勤務先へ高校の同級生とはいえ、学生が学生服を着てやってくるのである。どんな理由があったのだろうか。私の記憶は、大手町にあったその会社の受付に行って、用件を告げ、確かに応接室に通されて、緊張して椅子に座ったことは覚えている。なにを話して、どうやって帰ってきたのか、全く記憶にない。

 携帯電話というか、スマートフォンというか、とにかくそんな個人用の連絡機器を持っていなかった時代に出先から連絡を取るといったら、職場、あるいは住居の電話に外にある公衆電話から電話をするくらいしか方法はなかった。だから逢おうとするとどうしても周辺にいる人間に知られてしまうという状況だったから、外で何をしているのかおおよそ周辺の人間は察しがつくというものだ。

 だから学校の帰りに彼女が帰宅途上で降りる駅で待ち構えていたことが何回もある。当時のその駅は大きな乗換駅ではあるけれど、改札から降りる乗客が今ほどにはいないので、いつも改札口の横で足をブラブラさせながら口笛なんか吹きながら待っていた。そこでストローハットをあみだなんかに被ってでもいようものなら、日活の浜田光夫みたいな蓮っ葉な不良みたいなものだった。そこへ、仕事から帰ってきた彼女を後ろから呼び止め、驚かして、そのまま送っていったりした記憶がある。今だったらストーカー扱いされてもおかしくない。ただ、相手が受け入れていたからストーカーではないというだけだ。下手をしたら2-3時間は平気で待っていた。