軌跡

過去へのアンソロジー

禍根

 そのきっかけがなんだったのか全く思い出せない。そもそもは高校の同級生だった。しかも多分二年生の時の同級生で、一年生の時は一緒ではなかったと思う。

 その高校では学年が変わるごとにクラス編成があった。一年から二年になるときはそれほどでもないのだけれど、三年生になるときはがらっと変わる。それは当時は女子学生の半分近くは高校を卒業したらそのまま就職したからで、進学組は文科系と理系にクラスを編成したからだ。当時は国立大学を受けようとすると五教科の入試があった。文系でも数学があって数学II-Bまでだったけれど、理系は数学-IIIまで出る。私立文科系だったらわずかに三教科ですむ。最初は数学もやって国立を受けるつもりだった。授業料が五分の一くらいだったからだ。しかし、すぐに数学に躓いた。理科は生物の教師、物理の教師とそれぞれぶつかって途中から放棄した。どう考えても教師の方が理不尽であったけれど、放棄した自分が阿呆だった。それで人生が大きく変わったといって良いだろう。その意味では高校の教師の影響は大きかった。

 文科系が共学で3クラス。就職組が全員女子で3クラス。国立文系・理系がほとんど男子で4クラスくらいあったのだろうか。自分は文系共学クラスだったから教室が一番離れていた男子クラスのことは良く知らない。なにしろわざわざ男女共学の学校に通っているのに男子ばっかりのクラスなんかにいて、つまらんだろうにと思っていた。しかし、心の中では大学受験で数学をあきらめて安易な方向に舵を切った自分に呆れてもいた。安易な方向へ流れ始めた自分の人生を自覚し始めていた。こころなしか、男子クラスの連中が人生の勝ち組にさえ思えたくらいだった。実に小さなコップの中の勝ち負けだった。なにしろ高校入学時点で勝ち負けはついていたのだ。その高校への入学者の男子のほとんどは他の高校を受験して落ちた連中だったからだ。

 高校三年といったらもう17-8歳になるわけで今から考えたら、その割に幼いというべきか、まだ純真というべきか、プリミティブといってしまいそうなくらいだったような気がする。

 誰が云いだしたのか、もう全く覚えていないのだけれど、三年生になるときに、当時流行っていた交換日記をつけ始めた。『軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた女性と大学生の交換日記「愛と死を見つめて」』が大ヒットして、交換日記は大流行だった。今で云ったらまさにFacebookだろう。男が私ともうひとり、私と一年生の時から同じクラスだった男子。そして女子は就職クラスの2名と文系進学クラスの2名で全部で6人だった。B5サイズの横罫ノート(といっても昔はそれしかない)をぐるぐると回していた。回ってくるのが楽しみだった。実は私は当時、自宅でもA4のノートに日記をつけていた。オヤジからもらった若干インクが漏る古い万年筆で、一日に数ページもの日記だった。週に二日は英語の塾へ行っていたけれど、そんなこんなでほとんど受験勉強らしいものはまじめにやっていなかった。そんな状態に加えて、落語研究会を立ち上げたり、クラスの仲間で学校始まって以来のエレキバンドを組んでしまったりして真剣に受験をしようとしているとはとても思えない状況だった。

 男子クラスの友人が見るに見かねてなのか、それとも親からの差し金なのか、わざわざ私のところへ来て「一緒に勉強しようよ」と云ったことすらある。彼はその後国立大学を出て歯医者になった。その友人の父親とうちの親父、そして交換日記の男子の親は、全くの偶然ながら全員同じ会社で働いていた。

 結果として私は浪人をし、女子はふたりは有名企業に就職を果たし、進学組は堅実に進学し、もうひとりの男子は創設されたばかりの大学に進学した。

 当時は浪人することになんの抵抗もなかった。浪人する結果となる卒業生はいくらでもいたようだ。私は予備校へ通ったが、地方の高校では浪人した卒業生の為に補修コースを創る学校だってあったらしい。ま、それくらい受験生がいたということだ。

 結果的に交換日記は終わりを告げ、私たちはばらばらになった。しかし、そこからどうして私がその交換日記のメンバーのうちのひとりとその後つきあうことになったのか、そのきっかけがわからない。いや、曖昧な意味しか持たない「つきあう」という言葉はふさわしくないかもしれない。なぜならそれまでは交換日記というつながりが確かにあったのだから。

 しかし、一年間の浪人生活の後に大学生になってから、学生服を着て彼女の勤務先へ行ったという不思議な記憶が残っている。なぜそんなことをしたのか、どういう理由があったのか、今となっては全く理解できない。相手だって、入社二年目の女子社員でしかないわけで、その勤務先へ高校の同級生とはいえ、学生が学生服を着てやってくるのである。どんな理由があったのだろうか。私の記憶は、大手町にあったその会社の受付に行って、用件を告げ、確かに応接室に通されて、緊張して椅子に座ったことは覚えている。なにを話して、どうやって帰ってきたのか、全く記憶にない。

 携帯電話というか、スマートフォンというか、とにかくそんな個人用の連絡機器を持っていなかった時代に出先から連絡を取るといったら、職場、あるいは住居の電話に外にある公衆電話から電話をするくらいしか方法はなかった。だから逢おうとするとどうしても周辺にいる人間に知られてしまうという状況だったから、外で何をしているのかおおよそ周辺の人間は察しがつくというものだ。

 だから学校の帰りに彼女が帰宅途上で降りる駅で待ち構えていたことが何回もある。当時のその駅は大きな乗換駅ではあるけれど、改札から降りる乗客が今ほどにはいないので、いつも改札口の横で足をブラブラさせながら口笛なんか吹きながら待っていた。そこでストローハットをあみだなんかに被ってでもいようものなら、日活の浜田光夫みたいな蓮っ葉な不良みたいなものだった。そこへ、仕事から帰ってきた彼女を後ろから呼び止め、驚かして、そのまま送っていったりした記憶がある。今だったらストーカー扱いされてもおかしくない。ただ、相手が受け入れていたからストーカーではないというだけだ。下手をしたら2-3時間は平気で待っていた。