軌跡

過去へのアンソロジー

禍根-4

 三年後、それまで参加してきた某インターサークルの活動で中心年代となって忙しくなってきた。すると多くの参加者との接点が増え始める。しかも、学校の中の雰囲気もわかり切ってきたところへ多くの学校で紛争が勃発する。私の学校もご多分に漏れず、まるで流行に乗り遅れまいとするかの如く、学校側と学生との間の団体交渉があったり、学生による学校のロックアウトがあったりした。落ち着かない時期だった。
 当然、行動半径も広がってくると、いろいろなタイプの女性を知ることになる。どんなことをしてでも暮らしていけると、ようやく思い始めた頃だろう。地方から出てきた同級生の中には、驚くように奔放な生活を送り始めた連中もいた。もう既に同棲している連中もいたし、これ見よがしに女性関係を誇らしげにいってみせる連中もいた。いたく羨ましかった。学校まで遠いからアパート住まいをしたいといってみたら、動機が不純だと、おふくろにすぐにばれた。そうなってくると、彼女の背景も性格もわかりきっていることがいけないのか、倦怠感を生み出していた。そんなとき、私と同じように浪人をして、同じ大学に入ってきた、高校で同学年の男のクラスに、ちょっと気になる女学生を発見していた。
 学外組織に参画していたときに、その事務所に電話番に通っていたことがある。主催するスキーツアーの申し込み電話の受付だった。ほとんどの参加者はメンバーの知り合いだったり、そのまた知り合いだったりするが、学外組織の配布物の中に記載してもらっていたから、メンバー以外の申し込みがあり得るからだった。そういう時に電話をかけてくるのはおおむね、女子高校生か女子大学生だった。
 その年の夏は生まれて初めて女性と二人きりで旅行をした。その高校の同級生だ。もちろん親には内緒で、サークルの連中と出かけるということにしてあった。果たして向こうはなんといって家を出てきたのだろうか。伊豆の民宿に二泊した。その民宿は向こうが見つけてきた。ビーチはそれはそれは見事なまでに綺麗な海で、どこまでいっても自分の足下が透けて見える。生涯の中であんなに綺麗な海はもう見たこともない。その後の半世紀を振り返ってもあんな綺麗な海は知らない。ビーチに海水浴客はホンの数えるほどしかいない。海の家なんていう気の利いたものは一軒も建っていない。あるのはたった一軒の茶屋だった。そこで食べさせてくれるのはインスタントラーメンだった。それがことのほか旨かった。民宿の主人は私たちをいったい何だと思ったのだろうか。二泊では我慢できなくて、翌日、東京へ少し近づいた温泉町で飛び込みでもう一泊した。翌朝食べた朝ご飯の鰺の干物が旨かった。
 山にも行った。山のてっぺんにある、ランプの宿だった。それでも私たちは一線を越えなかった。
 その年の夏、出入りしていた組織が欧州から日本にホームステイをしてやってくる若者を募った。何日か、そのうちの何人かをそれぞれが担当して、連れて歩いてくれないかという依頼があった。私はドイツ人の青年を一日横浜を連れ歩いた。それで彼が満足したのかどうかは知らないが、当時まだ走っていた市電に乗せて歩いた。
 かれらが帰国する前に銀座のロシア料理の店でレセプションがあり、最後に目白の椿山荘で、フェアウェル・パーティーがあった。そこでは同じ大学からボランティアとして参加していた女子大生達も来ていて、顔見知りになった。
 そのうちのひとりがギタークラブに所属していて、良くキャンパスでケースに入ったガットギターを持って歩いていた。まるでテニス部の連中が用もないのにテニスラケットを持って歩いていたのと同じようだった。
 たまたま、彼女と一緒に同じようにギターを持って出逢ったのが、ちょっと気になった女子学生だった。何度か学内で接点があるうちに話をするようになる。人と話をするときに、上に上げるように目をそらすのが癖で、クスッと笑いながらしゃべる。照れがあるのか、なんだかまるで男と口をきくのは人目をはばかるかの如くだった。